自分が何考えてるか分からない

本当にしにたいのか

そこもよく分からない。

後悔することを頻繁に思い出して、頭を抱えたりするが、きっと、それを理由にしにたいわけではない。

それは、自分が如何に気の狂った行動を取っていたのかを、噛み締めているだけのことであって、私は、噛み締めたその味の悪さに悶絶して、また、変えようのないことに悔しさなり消し去りたい思いなどを持つことがしばしばなのだ。

しにたいというのは、それらの経験を恥じる気持ちもあるのかもしれないが、きっと、少し違うものが理由としてあるように思う。

まず、生きることに対して、主体性だとか積極性を持てない自分がいることを確認しておこう。

やりたいことも、やりたくないことも、実は自分でどう認識しているか分からない。

何が好きで何が嫌いなのか、よく分からない。

分かっているのは、やるべきことというものへの、嫌悪感くらいだろうか。
周囲が当たり前にしている、資本の獲得というものに対して、忌避感とでも言おうか、私は嫌な気持ちを感じている。
生産者と労働者の格差、広がる経済格差、技術革新に伴う変化と生産性の維持、そんなところを考えると嫌に思う。

社会で当然とされている生き方に対して、それを拒否したい気持ちでもあるんだろう。
もっと、自由な時間がたくさんあって、何も心配せずに、言わば平和ボケして生きていられられると、夢を見ていたのだ。
その夢から覚めたくないのかもしれない。
カネさえあれば何でもいいという風潮が、心底恐ろしく感じられる。

また、差別なんかもないものだと思っていたのに、実際には色々な形の差別がある。
私は、自分がその標的になるのではないかと思うと恐ろしい。存在を否定されるような扱いを受けることが恐ろしい。

つまり、私は生きることに恐怖を感じているらしい。それから逃れたい、逃れる術が欲しいというところが、本当の気持ちだろうか。
それが、しにたいという4文字に込められているのかもしれない。

また、生きることの目的を見いだせないことも、しにたいことの理由だろう。

何かに深く没頭したことはなくて、とりあえず学校に行き、言われるままのことだけをやっていた。それに疑問や嫌悪を持っていたけれど、世の中そんなもんなのだと思って、流されようとしていた。しかし、途中で馴染むことが難しくなり、やるべきことから逃げる道を選んだ。主体性なく時間を過ごした結果だ。

今まで、自分の好きなことや深めたいことに時間を使うとは何なのかを知らずに来たので、今更どうすればいいのか分からない。

興味と言えば、映画や漫画などの創作物を見ることくらいだろうか。
人の価値観や世界観がきれいにまとめられているので、見ていて楽しい。表現を味わうことは好きなのかもしれない。
出来れば、そういう体験に存分に浸っていたいところだ。

見るのは好きなのだが、自分で表現しようと思うと、なかなかできない。気持ちにブレーキがかかるというか、取るに足らない程度のことと流してしまうのか、ほんの一言さえもうまく出すことが出来ない。自分は何を見て、どう感動したのか、そんなことを伝えるための言葉が見つからない。薄っぺらい表現さえ、うまく出てこないのだ。

涙するほど、心が震えても、それを言葉にすることが出来ない。自分で不可思議に思い、不愉快な気持ちにもなる。
待ちわびたシーンの到来について、何を素晴らしいと思ったのか、自分の満足する表現さえ出てこない。
そんなときに寂しさを感じる。
好きなものを好きと言えない物悲しさが湧いてくる。

なるべく拘りを持たず過ごそうとしたことで、感動について、どこか、砂を噛むような味がするようになった。

たまの感動に浸ることも、生きる上での足かせになるのであれば、どうして心満たされるだろうか。

ひたすら楽しみに浸る時間が、もっと欲しい。何だか乾ききってしまって、砂漠のような心持ちだ。