自殺失敗するのこわい

自殺を失敗して、さらに障害が増えたらどうしよう。そんな不安がある。
今の自分の姿に固執している。
ものを考え、それを表現する自分に、固執している。
それを失って、生きるだけの肉塊になることを、恐れている。
目も見えず、耳も聞こえず、話すこともない。心臓が脈打ち、呼吸するだけの肉になることが恐ろしい。

案外、自分のことを好きなのかもしれない。人の中でうまくやれる質ではないけれど、これはこれで好きなのかもしれない。しかし、このままではどの道、死ぬ。追い込まれて死ぬ。人の世の中でうまくやることが出来ないのだから、死ぬに決まっている。だから、今好きな自分の内に死んでおきたい。

人の形をしているだけの、心臓が動いているだけの、物と呼ぶほうが相応しい何かになることなく、うまいことやりたい。

ふと、思う。
ただの肉塊と、今と、大した違いはあるのだろうか。

文字を読んだり、並べたりすることは出来なくなるだろうが、伝える相手や、語る相手などいないのに、そもそも、それが出来る意味はあるのか。

今でさえ、早くに終わればいいと考えて、時間を過ごしているだけだから、喋るとか、聞くとか、必要なんだろうか。

私の考えだと、人の感覚というものは、その本当の姿を共有することはなく、想像でやり取りするしかない。だから、人は孤独なものだとしている。すると、どの道、人は孤独なのだから、想像でのやり取りをする手段を失くしたところで、元々、孤独であるということには変わらない。

文字通りに、何もせず、死を待つだけになることの何が恐ろしいだろうか。

暇つぶしの選択が出来なくなることだろうか。
確かに、暇すぎてすぐにでも死にたくなるだろうに、何もできないのはつらいかもしれない。

ただ、今の状態でもどうだろう。
暇つぶしの選択はできるけども、その暇つぶしのために、必要なものを揃える手間がかかる。その余計な手間、不本意な行動を取ることの不自由さが、恨めしい。どうせ、そんなことを考えるのだから、どの道、苦痛だ。苦痛を暇つぶしとはしたくない。

障害につけて、マトモでないと、イヤミを言われたり、何の価値も生産できないくせに、などと言われたりするわけで、社会に居場所のないやつが、何故、社会と関わる方法を失くすことを嫌がるのか。

孤独を誤魔化す手段が消えるだけで、孤独であることは変わらないのだから、そんなに恐れることがあるだろうか。そんな、必要はないはずであるのに、おかしいものだ。

そもそも死にたいくせに、そこにこだわることが、おかしいか。いや、生き残ったときに、感覚が残っているということが、恐ろしいんだろう。結局、別の苦痛を味わうことになるので、苦しいと言いたいわけだ。

一方で、その苦痛も、社会との繋がりに空虚なものを感じるのであれば、苦痛と言うには、適さないのではないかと言いたい。

苦痛とは、結局のところ、自分がそう思っているものもあって、社会との不協和とかは、そうとも言えるだろう。精神的な苦痛は、自分らしい判断によるものと言えると思う。

エゴとか価値観とかを無くせば、苦痛は割と減る物なのだと思う。しかし、言うほど簡単には出来ないだろう。

今、ただ死を待つだけの時間を過ごしているのであれば、ただの肉塊になろうとも、そこは揺らがないのであって、恐れるはずはない。

そこを恐れるあたり、どうにも、見えていない拘りとか欲求があるように思えて、自分の人間らしさを感じるのでありました。