前向きか、いや、そんなわけない。

私は、前向きかもしれない。そう思うときがある。自分は変えていける。希望を持とう。そんな言葉がよぎるときがある。

静かに思い直すのです。いや、私は、夢を見ているのと変わらない。おめでたいことこの上ない。自分ではない自分を夢見て、逃避しているだけだ。人から認められる姿を妄想しているだけだ。そんなものは、前向きとは言わない。実現性を横に置いて、自分が受け入れられた姿を妄想しているだけのことを、前向きなどと言えるわけがない。
妄想の自分は、最も調子が良く、最も素直である。それは、あまりにも空想の産物らしく、自分と何を重ねるところがあるだろうか、と、自分のことながら、あほらしく思うのです。

現実は見ない。人の役に立たない、のろまな自分を思い知るだけだから。分かりきっていることを、なぜ、わざわざ確認することがありますか。

何にも興味がわかなくて、何をするでもなく、ただ寝転がって、呆然と時間を過ごしてきた。そればっかりしてきたのだから、現実に居場所がなくて当然だろうと思うのです。
だから、僅かな望みを抱いたとき、それを膨らませて、空想に浸る。人とうまくやれる自分を妄想する。望みが、失せるまで、自分を慰めるように空想に浸る。

空想の誰かのように、もやもやした気持ちを抱くことなく、素直に、人の思う人らしく振る舞うことに、徹することができれば、それを、前向きな態度と呼ぶのでしょう。私にとっては、そうなのでしょう。

出来ない。私にはそんなことは出来ない。気持ち悪くて仕方ありません。常識的態度を取る度に、気持ち悪くなる。

周りが平気で嘘をつく様子を見て、そのときのショックから未だに立ち直れない。いつもいつも、目の前の人は嘘をついているんだろうなと思って、話半分にしか聞いていない。好きも嫌いも嬉しいも悲しいも、何もかも、まともに聞くのも、ばからしい。どうせ何かしら誤魔化しているのだから、親身になるのも、気苦労が重なるだけだ。嘘っぽい態度でも色好いものであればそれでいいというあたり、自分を含め、何とも気色悪い。
腹で違うものを考える人のなんと気色悪いことか。私は嫌いだ。

人間不信だ。人を信じられない。
何か、表情を一枚めくると、違う表情が隠れているようで、見せられたものを信じることができません。
その人の都合のために、自分が道具として扱われているようで、何とも気色悪くなるのです。それか、平坦な気持ちで、その人の言うことを整理するだけです。

仕事だから仕方なく笑っているだけなんだろう。下手なトラブルを避けるために愛想よくしているだけだろう。整理をつけるために怒っているのだろう。忘れるために泣いているのだろう。

表現されたものの裏側には、その人の都合がある。無意識にでも、自分のために行っている。人の言うには、それを想像することを、余計な勘繰りと言うらしいのです。隠したいものは、そのままにしておくものらしいのです。確かに、思い出すのも苦しいものを、わざわざ思い起こさせるのは、心苦しいことです。余計な勘繰りと言われるのも納得しないわけではありません。

しかし、そればかりでもないだろうに。

人を非難する気持ちを隠して笑うところに、気持ち悪さを感じるのです。勿論、それを表に出せば、余計ないざこざが生まれてしまうだろうから、隠すほうが賢いことなんでしょう。隠すのが当たり前なのでしょう。だからこそ、それを前提にすると、目の前の人間は、実は、心の内で、何を非難しているのか分かったもんじゃない。そう思うのです。

人の何にも信じられなくなってしまった。
疑う理由はあれど、信じる理由はないのです。
信じない不都合はあります。何をしても上っ面だけの態度なので、友人などができないことでしょうか。
寂しいと思うところもありますが、人との関わりを、嘘で塗りたくった気持ち悪いものと言うくらいなのだから、人と関わっても、寂しさを感じることに変わりない。それが私です。一人でも、二人でも、何人でも同じ。人を前にすると、隔たりとか、溝みたいなものを思い浮かべる。目の前の人は、そもそも確かにいる人なのか疑問にすら思うのです。何を思っているか分からなくて、どこか人形のようで気持ち悪いのです。

人と人形を並べようとするあたり、大概、私の頭もおかしいものと言われるでしょう。いや、しかし、本物を確認することが出来ないのだから、人形を見ているのと同じでしょう。

皆が、取り繕って、見栄えよく、演技をしている。
さながら、人形劇のように思うのです。

劇を鑑賞している分には、実に、楽しいものであります。
こんな私でありますので、人の言う、前向きさ、などというものとは、全く縁のない気持ちになるのです。