しにたくなるのはなんでかな

とりあえず、しぬことを目的にしている。

なんかそんな感じがする。
うつがピークだった頃に、色々考えたことはよく覚えていないが、しぬしかないじゃないと思ったことだけは残っているらしく、天命を終えるまで頑張ってみようと思ったとき、そんなことよりしぬる方法を探せという考えが浮かぶ。

今更、努力しようとしても、人が認めるほどのことが出来るようになりはしないと思う。
もはや、信念みたいなものだ。

思いっきり、他人基準である。
自分の基準を持ち出そうとすると、私は、本の一行でも、ゆっくりと意味を考えながら読むような気質であるから、マイペースで物事を行うには、あまりにのんびりとしているような気がして、なんだか社会に合っていないんじゃないかと思う。

急かせかとするのは嫌い。
たっぷりと時間をかけて、ゆっくり伝えたいことは何なのかを考えながら本のページをめくる。
そして、すぐ休む。なので、読む速さというと、一時間に一頁くらいだろうか。
とにかく、ゆっくりとすることが好きである。

最近の情報の更新の速さには、ほとほと疲れてしまって、私は、どうもついていけない様子である。スピード感は遠慮致します。

急いで読むと、感動も何もなくて、ただ作業している感じがする。

情報の処理に疲れてしまうので、過去のことや空想に浸りがちなのかもしれない。
なんとかゾンビというやつなんだろうな。

置いてけぼりを食らって、振り切られてしまって、取り残された感じがする。
何からって、社会からです。

もう、何周遅れたか分かりません。
精神障害で失われた月日は取り戻しようもないくらいに大きいものに感じられるのです。

私の場合、先天的な障害もあるので、最初から欠けてる上に、二次障害で失った時間もある。
今も、治ったかというと、そうは言い切れない。
そうでなければ、しぬことなんて考えるでしょうか。明日、目が覚めなくても構わないな、なんてことを自然に思うわけでして、その思いの濃いか薄いか、そのちょっとした違いしかないわけであります。

今後、長々と続くより、今の状態で安楽死でもできたらいいのになと思うのであります。
成功に向かって努力するよりも、人生、何をきっかけにして、まともと呼ばれなくなるか分かったものでなく、自分の考えなどちっぽけで、世の中にあっては一人の人など本当にちっぽけなもので、ちっぽけな私は慎ましくただ生きることにも失敗したなと、悔しさだか切なさだか分からないものを噛み締めて、安らかに逝去したいものであります。

人様のお役に立つと言っても、正直なところ、そのために心身をすり減らすことにも嫌な気分がするものでして、それであればいっそのこと、冷たくなってしまったほうが、望ましく思われるわけであります。

人生は苦に満ちていると言いますが、人の集まりの中にあっては、そこに自分のいる意味を示さなくてはならないところを、私は、なんとも苦しいことのように思えるわけであります。
自己のどうのこうのよりも、どこか他人の都合を優先しなくてはならない。人が二人いれば争いが起きるとは本当だろうと信じております。様々なものに影響され、育まれた意思や信条というものも、人によってより育つこともあれば、人によって崩されることもある。人の集まり全体の利益というものは優先されがちであって、社会という仕組みはそこから離れられないもののように思うのです。

共同体であるからには、秩序が必要なのであって、規則が必要なものであります。それはわかってはいるのですが、今の秩序というものは、どうにもお金中心になっていて、好きではないのです。

人が人らしく生きるというよりは、人は金を回すために生きるものというようで、なんとも物悲しい気持ちになるのであります。

そこに自分が加わろうと思うと、何も考えずひたすら作業をする機械のようになれと言われている心持ちになり、拒む気持ちが強く出るものであります。