今日もカネにならないことを話そう。

このブログも消さずに何日か過ぎたが、見る人などいない。ひとり言を吐き出すにはちょうどよく、以前はもっと、感情の向くままに言葉を並べたりしていたが、最近は少しばかり小ぎれいにしようと意識している。

それというのも、自分で見返したときに、面白くもなんともなかったからである。それに、どこの誰に向けたか分からないが、気持ちの悪いブログを見たというツイートを見て、自分のものもそうかもしれないと思ったからだ。

さて、今日の昼にカレーを食った。うまかった。ただ、それだけの話だ。二日続けてカレーを食ったのだが、今日のものは、それでもうまいと思えた。味付けが違ったからか、うまいと感じた。何なら明日もあれでいいと思っている。単に、あのカレーが好みであるだけかもしれない。初めて食ったものであるから、珍しさから、もっと味わいたいと思っているのかもしれない。皮付きのじゃがいもが入っていたのが印象的だった。

思えば、あのカレーは案外、塩っけがあったかもしれない。めんつゆでも入っていたのだろうか。そんなに舌が肥えているわけでないので、何を材料入れたとかは分からんのであるが、なんとなくそんな印象がある。そう言えば、カレーにしょうゆをかけて食ってるやつがいた気がする。案外、しょうゆとかめんつゆとか、カレーに合うものなのだろうか。試したことなどないので分からないが、あんまり合うようには思えない。やっぱり、めんつゆは入ってなかったように思えてきた。

塩っけの話はともかくとして、味が濃かった。いや、もしかしたら、塩っ気も関係あるのかもしれないが、よく分からないので、横に置いておく。
濃い味だったので、飯が進んだ。粘り気があって、米によく絡むようでもあったので、そこもまた好みであった。

結局、味が好みであったということのようだ。ついでに言うと、濃い味が好きなのだろう。あんまり肉がごろごろ入ってるわけでなかったので、その点、食いやすかったようにも思う。そもそも肉は入ってなかったかもしれない。肉がないカレーだったのか、私の皿には肉がなかっただけだろうか。私の記憶の皿には、肉は見当たらない。脂のようなものが見えた気がするのは気のせいだろうか。

味は濃かったが、辛くはなかった。マイルドと言えばいいだろうか。塩っけを感じつつも、なんとなく甘みのあるように感じた。そのほんのりとした甘みとかの柔らかさに、和風だしみたいな印象を抱いた。だから、めんつゆと申した。自分でおかしいと思うのは、和風だしとめんつゆとは違うものだったはずだ。最初から、和風だしでも入っていると言えばいいところ、わざわざめんつゆと申すのは、ただ、それが思い浮かんだからだ。このブログを書いている内に、和風だしに至った。あのカレーには、和風だしが入っていたかもしれない。

ひとしきり、あのカレーのうまかったことを申した。どうしてうまかったのかは、全く分からないが、ひとまず、ただ、いい感じにうまかったとだけ申した。ついでに言うと、それ以上言うことはない。

なんのスパイスを使っていたかは分からないし、具材もじゃがいもしか覚えていない。

なんとも注意しないで食ったらしい。
料理に興味があって、それなりに精通していれば、色々見るところ変わるのだろう。
私は、ただ、うまいと思って食った。

昼に満腹になるほど食ったのも、久しぶりであった。おかげで、午後は眠かった。あのまま横になっていたら気分が良かったであろうと考えると、勿体ないことをした気分になる。せっかくの幸せを逃したような気分になる。食って、うまいと唸り、ごろ寝する。腹が肥えるだろう。腹が満ち足りとると、気持ちが満ちる。気持ちが満ち足りとると、腹の肉々しさが満ち足りてくる。幸せ太りとはこのことを指す。妻の手料理で太るというのは過去の話よ。現代は、むしろ、夫の手料理で太ることすらあり得る話になるかもしれない。

さて、ほんの少し、ややこしい話に触れたが、どうでもいい話に戻そう。今日、私は食い物を食って、うまいと思ったのだ。それでひとまず良しとしなくては、うまいと思ったことが勿体ない。ああ、うまかったうまかった。

実際、明日もあれを食ったらどう思うだろうか。さすがに三日目にして、二日続けて同じ味ときたら、飽きがくるだろうか。今の、なかなか腹の満たされている状態でも、明日食ってもいいと思っているのだから、案外に、気にならないかもしれない。しかし、明日食ったとして、満足感が今日ほどでなかったら、残念に思うかもしれない。さほどの満足感で上書きされると、二度と食う気が起きないかもしれないと考えると、少し気が引ける。
明日は別のものを食うか。

そうしよう。