嘆いて、泣き言並べただけ。

私は、やる気がない。
私は、生きることに冷ややかなのであります。

私は、目的を持った集団に同調することが、根っから理解出来ないのであります。
仲間と呼ぶものを、理解できないのかもしれません。
私は、協調性をアピールする態度はなんとなく分かっているつもりですが、それは見せかけだけのことであります。私には、協調性そのものはないのかもしれません。喜びを分かち合うとか、今ひとつピンとこないのであります。また、同じ志を持つ仲間というのも、今ひとつ理解できないのであります。それらについて、漫画などを読み、感動するときがあるのですが、その理由は、自分の中に大きく空いた穴が、ほんの一瞬、埋まった気になった満足感を覚えるからなのでありましょう。美しい景観を見たときのそれと、何ら変わりないものなのであります。自分にとっての、途方もないものを目の当たりにしたときの感動と、変わりないのであります。

社会的死亡というのがありますが、人に同調できない私は、そもそも、社会に生きる資質がないのかもしれません。私は、一丸となって目的の達成に勤しむ人の姿を見て、狂っていると思う始末なのであります。
人は狂っていると、冷めた心地で人を見る自分に、嫌気がささないわけではありません。そのために、常識とか、当たり前とかの一言を前にすると、その気持ちを飲み込むのであります。飲み込んだ気持ちは行き場なく、どんよりと腹の中に居座るのであります。

人を狂っていると思う私の気持ちは、密やかに、それでも確かに腹の底に渦巻いております。笑いかける人の目にすら、誰のものとも知れぬ狂気を見て、恐ろしさを感じるのであります。

理念を掲げ、その実現に力を尽くす姿に、煌めきを見ることもあります。しかし、それと同時に、危うさも感じるのです。見据えるものにたどり着くために、周りのものを蹴散らしていくような狂気を見るのです。飢えた獣の群れが、一心不乱に肉を貪るような、生き物としての生々しさを感じて、恐ろしくなるのです。
それも、人らしいことなのでしょう。私には、それがどこか狂っていると感じられるだけのことで、人らしい姿なのでしょう。欲のために動く。ただ、それだけのことであるのに、どうしてか、私には恐ろしく感じられるのです。

あれが、やる気とか熱意というものなのであれば、私は、それを持つことはないでしょう。欠陥があるのです。人として持つべきものが欠けているのです。
そのことは、精神障害と診断されたことで、明らかになっているのです。人らしくないことは、外から見ても明らかなわけです。
人らしくないものが、どうやって、人の世の中で生きていけるのでしょうか。先ほど、人の様子を獣のようと申しましたが、獣は、人らしさの欠けた私のほうなのであります。私は、形ばかり人に随分と似ているだけで、人として振る舞うことができない異物なのです。私にとって、人としての居場所など、あるわけがないのです。
なんとも、虚しい気持ちになるのであります。社会性など、自分にはないもので、既に、社会的には死んでいるも同じなのだと思い、虚しくなるのであります。それに輪をかけて、肉体的にまだ生きていることが、なんとも、虚しさを増長させるのであります。

眠るときに、目が覚めなければいいと、何度も思いました。
目が覚めたときに、まだ、生きる時間が続くと知り、何度も悲しみを覚えました。

欠陥があるのにも関わらず、人らしく振る舞おうというのは、苦しいのです。人らしさを求められることなどから、とっとと離れたいのです。