自戒っぽいひとりごと

いつからか、人にどう思わせるかを考えるようになった。どういう行動を取ればどう受け取られるのかを気にした。印象を操作して、好ましい外見上の像を作ることを考えた。
しかし、それは思いの外に窮屈で、辛いものだった。
人の印象というものをひたすらに気にしてみたが、窮屈な思いをしただけで、うまくいったわけでもない。結局のところ、何を言われようが突っぱねるというところに落ち着いた。

ところが、この突っぱねるというところが良くなくて、しばしば、いさかいを生んでしまう。一番よろしいのは聞き流すとか忘れてしまうといった具合だが、そこのところがどうも不器用なようで、いい塩梅といかない。

誤解されるのも、よくあることで、避けられるところは避ければいいが、やはり、まずは、よくあることなのだ。

誤解されるような行動を取るほうが悪いと、まあ、よく言われたものだが、本人は全くそんな気がないのだから、想像もつかないので、同じことをしてしまう。いちいち、どんな行動はどんな印象を与えるとかの暗黙の了解を覚えるのは、めんどうだし、どうでもいいことだと、思っている。そのせいもあるだろう。思うんだから仕方ない。どうしてもそう思うんだから。


して、個人として思うのは、結局のところ、見た目にその人がどんな動きをしたとか、それくらいしか分かることはないということだ。その人は何を思ったのか、本当はどんな理由があったのか、実際のところ分からないのだ。その人とそのことについて話す機会があっても、本当のことを言っているかなんて、分かるはずがない。当の本人の心の内を覗くくらいでないと、分かるわけがないのだ。

だから、ただ、信じるしかない。どうしようもない。表に出てきたものを信じるしかない。
傍からの印象も、吐き出された言葉の意味合いも、結局、憶測と推測の域をでないものなので、信じるしかない。
人は信じあってなんぼなのだ。
そうでないと、コミュニケーションなんて成り立たない。私は通じ合うなんて、あんまり信じちゃいない。それよりも大切なことは、表現を信じることだと思う。
何を見てどう感じたのか、何の理由があってその行動をしたのか、全部、信じあってこその人間関係なのだと思う。だからウソはよろしくない。ごまかす度に、本当のこととは裏腹に事が進んでいくし、人の関わりを冷たく鼻で笑うような行いでもあるからだ。人は信じることが先にあって、関係を築くことができる。不完全で不合理な言語という道具で、分かりあったと思えるのは、信じ合うことができているからだ。
人らしさとは、人を信じることから始まるのだと思う。


しかし、偉そうにそうは言ってみるものの、言うは易しとはまさにこのことで、色々勘ぐってしまうのが素直じゃあないところだ。

もしかしたら、きっと、たぶん、おそらくは

始まりはそんなものなのに、考えるうちに、そうだろうと決めてかかってしまう。見えないものを勝手に分かりやすいように形を整えてしまう。実際のところと比べようがないのがまた厄介なところで、一旦できあがってしまったものは、案外、堂々と頭に居座ってしまう。
始まりは、ほんのり頭をよぎった微かな疑いにも関わらずだ。
それは偉そうな顔して、正しいのは自分だと言わんばかりに、ぐいっと前に出てこようとする。おかげでこちらは目がくらんでしまう。いや、まったく、思い込みとは本当に厄介なものだ。

人は個人の経験によって、色んな偏見を持っている。そのせいで思い込みに陥って、素直に人のことを見れなくなったりしてしまう。
そんなむつかしさはあるけれども、やっぱり素直に人を信じるというのは大切なことで、みんなで大事にしなきゃあならないことなんだと、私は思うんですわね。