ひとりごと

これまで歩いてきた未来の中で、おれの人生はなかった。早いうちから心は死んでいたからだ。
まだ年若い頃、外に信頼できる誰かを求めたあの頃から、すでに心は腐り始めていたのだろう。夢など抱くことが出来なかったのも、自分でわからぬ形で不満ばかりが募っていったからだ。投げやりと気づかぬまま投げやりな姿勢を取っていた。全てがどうでもよかったのだ。生きることに居心地の悪さばかり感じてきたのだ。

愛されていなかったとは、言わない。
自分の意思を伝えることをはばかるようになり、ひたすらガマンするだけの関係性であったが、愛されていなかったとは言わない。
ただ、家族の示す愛情が明後日の方向にあったことを、敏感に察知してしまったのだ。
家族というつながりだけで、お互いに無条件の信頼と深い理解があるという誤解があることを理解してしまったのだ。
そして、それをより良い方向へ向かわせることが出来なかったのだ。

愛情とは難しいものだ。
いくら思いやって愛そうとしても、相手にとってそれが良い影響になるとは限らない。独りよがりな愛情を受け続けると人は歪む。受ける一方になり、自分を見失ってしまう。
家族という理想にこだわりすぎると、家族の誰かは道を踏み外すことになるのだろうと思う。
家族というつながりは、理想を現実にするものではないのだ。ただの関係性なのだということを念頭に置かなければ、例え、愛であろうと、ただの理想の押し付けや人の個性を殺すことになり得るのだ。


人との関係性に理想など持ち込んではいけない。
その人の歩んできた道のりの上にしか交差する点はないからだ。
いくら過ごした時間を長くしたとしても、いくらか交差するところが増えるだけだ。
まるっきり同じ経験をするわけではない。感性はそれぞれ違うのだから、同じ言葉でも細部の意識はずれているものだ。

異なる感性による異なる経験をする者同士で、同感なんて求めるものじゃない。そんなことするからおかしくなるのだ。それに付き合ってなどいられない。
趣味が合わないとか、意見が合わないとか、そうあって然りと言えるところに、そんなあり方は違うとか言うから話がややこしくなるのだ。

正しいも間違っているもない。
人類の積み重ねから作り上げられた秩序という概念に沿うかどうかの話なのだ。
間違っているのではなく、「秩序にそぐわないのでやめたほうがいいですよ。」くらいのものなのだ。権利を侵害する行動などは止めなくてはならない。
頭がおかしいとかではなく、主流ではないとか、歴史を見るとうまくいってない方法であるとか、そういう話であるのだ。ある人は、それを知らないのかもしれない。もしくは、それを知った上で改善策を講じたのかもしれない。
いろんな事情があって、その人はある趣旨の意思や思想を、ひとまず表現しているに過ぎないのだ。

その考えに賛成するも否定するにも、感情的な批判をしていたのでは、文字通り話にならないのだ。歴史上の出来事だとか、化学的な反応であるとか、科学的な分析結果に基づいて、賛否を言うべきなのだ。

もちろん、それが当てはまることばかりではないし、必要でないこともある。例えば味の好みなどは、当人がどう感じるかだけの話なので、批判も何もあったものではない。
個人の感性に基づく話と、科学的根拠の必要な話とでは、別物なのだ。

そういう差異を無視するから、理想の押し付けになる。
感性の違いに正しいも間違いも、まず存在しないものである。人の感性はそれぞれそうあって然るべきものなのだ。だから、個人の尊重という考え方が法律にも明記されるようになったのだ。

教えるとは押し付けとは違う。
様々なものや考え方があることを伝えることであり、色々なあり方があることを伝えることなのだと、私は思う。

人との関わりに理想を持ち込むことは、その関係性を陳腐にするものなのだ。