強風だった。吹き飛ばされそうだった。

急ぐ車に追い抜かれるときは、ちょっと怖かった。風にあおられて倒れてしまったら、この車にひかれてしまう。それを、考えると怖かった。ごみも飛んできて目に入るし、危ない。

風の強い日はいつもそう思うのだが、それを避けるには移動手段を変えればいいだけのことだ。それを分かっていて同じことをしているのだから、仮にひかれたとして、阿呆と言われても仕方ない。

今日も阿呆であったのだな。自分にそんなことを思う。私という人は、なんとなく間抜けというか、考えなしなところがある。危ないと分かっていることをそのままやってしまうところが大変に阿呆らしい。
何かに焦っているのかと言われたことがある。そうかもしれない。しかし、具体的に何に焦っているのかは分からない。それが阿呆たる由縁なのかもしれない。阿呆と気付いて尚阿呆であるのなら、救いようのない話だろう。自身のことながらそう思う。

これだけ自分のことを阿呆というのもまた阿呆なことだ。なんとも自虐的だ。こういうひたむきに後ろ向きなところがある。自覚はないが、これも望ましくないことの起こる一因になるのだろうか。そんな話をする間柄の人もいないので、ひとりで悶々とするだけになってしまう。

これでは阿呆のままだ。
少し危機感を覚えるところであるが、人嫌いがそこで邪魔をする。私の思う人とは、鬼が出るか蛇が出るか分からない藪のような生き物なのである。まったく恐ろしく感じるのだ。人はそれぞれ色々な立場があり、主義を持ち、主張をするものであるが、表向きの顔に隠れたそれらは、自分にとって藪の中をごそごそと動く何か恐ろしいものに思えて仕方ない。人を目の前にすると、何が出るかという恐ろしさがいつもついて回る。

それにわざわざ自分が阿呆かという話をするための人なんて探してたまるものか。それこそ阿呆なことではないか。わざわざ自分は阿呆ですよねなんて聞くなんて阿呆でしかない。全く、考えるばかりではどこを向こうと阿呆でしかないようだ。自分は自分に酷評をするのが好きな様子だ。そんなことだから、何かに焦っているのだ。自分で自分の尻を叩いて焦らせている。やたらに叩くものだから自分でもどこを向いたらいいのか分からなくなっている。それもまた阿呆なことである。
これだけ自分のことをあげて阿呆というのだから、どこかしらの阿呆を直せばいいものを、どこを向いても自分に叩かれるものだから、阿呆の立ち位置から動くことができないのだろう。

滑稽である。

まさに、自分を見失っているとはこのことなのだろう。ああでもないこうでもないと自分勝手に迷っている。人を恐れているが、そんな自分を迷わす自分こそ恐ろしい。自己肯定感のライフハックとかは、こういう事態をよろしくないものと言っていたのだろう。読んでいたくせに迷走してばかりだ。
いや、走ってもいないのだろう。
右を向けば左、左を向けば後ろ、後ろを向けば前。そんな具合に指示がくるくる変わるものだから、走るに至っていない。指揮系統が混乱を起こしている。それとも騎手と例えようか。レースのゴールの方向が分からない騎手と言おうか。馬が走り出さない騎手など騎手と呼べるのだろうか。滑稽さを表すには騎手と例えるのがよいかもしれない。
騎手というなら、それに従うだけの馬のほうもよろしくない。
勝手に走ってしまえばいいものを、なまじ言うことをきいているから、同じところをくるくると回ることになっているのに。それとも、言うことを聞くしかない理由があるのだろうか。

こんなふうに自分を例えてみると、余計に滑稽である。賭けのレースであれば、暴言を浴びるどころでは済まないだろう。いやはや、とんでもない状態である。

どうしたらまともな騎手になってくれるのだろうか。

どこに向かうべきなのか、何をしたら気づいてくれるのだろうか。

考えても思いつくものではない。
何故なら、考え込むことで、阿呆になっているからだ。

どこへ向かっているか分からないことを阿呆と言われるが、考え込んでいるだけの阿呆は救いようのないものと言われる。

動じないと言えば聞こえは良さそうだが、実態は動いていないだけなのである。
救おうとしても、その場でくるくる回っていて、着いてこないのだから、確かに救いようがない。呼びかけるだけ無駄になってしまう。

しかし、まあ、そんな阿呆に進むことを思い出させてくれるような、優しさみたいなものを、少し期待してしまう。
人は、何かしらの理由があって、その場に留まるほどに、と言うか、進むことを忘れるほどに傷ついてしまうこともあるのだから、面倒なことだろうが、少しばかり阿呆に寄り添って手助けをしてもらいたい。情けないが、本当に情けないことだが、進むとは何なのかさっぱり忘れてしまったのだ。くるくる回っているのに、本人は、前に足を出しているつもりになっている。それが滑稽で阿呆と言えるのだろうが、どうか少しばかり阿呆の面倒を見てもらいたい。自分の手綱を握るとはどんなことなのか、思い出すきっかけを、自分で見つけることが出来ないのだ。

なにせ、くるくる回って、目が回ってしまっているのだから。

見えるものも見えなくなっているようなものだ。

地面に立てたバットを額に当てて、そのバットを中心にくるくる回ると、大変なことになる人が多いと思う。そんな経験を、遊びでしたこともあるだろう。

あんな状態なのだ。

休むことも必要だし、目を覚ましたあとに、進む方向の目安も欲しいのだ。

こんなことを言うと甘えと言われるのだろう。

そう言われるとは分かっているけれど、とりあえず、目が回っている最中なので、助けを求めてみよう。


どちらが前なのでしょう。よろしかったらほんのひと時、手を引いてはもらえませんでしょうか。ご面倒とは思いますが、ほんのひと時でいいので、よろしくお願い申し上げます。

よろしくお願い申し上げます。