死という人権

あくまでもここに述べることは、私見と推測の域を出ないことを、まずはお断り申し上げる


日本を表す言葉として、自殺大国とか絶望の国とかいうものを目にしたことがある

過去の統計では、確かに20代から30代の死因に自殺の文字が目立った

自殺者数は減っているとも聞いている
減っているとしても、先日、学生が自殺したというニュースが流れていたことに悲しみを覚えずにはいられない


そんな日本であるが、自殺していないが、生きていたくないとか生まれたくなかったという人もいることだろう

SNSではそんな声を伺い知ることもできる

それに対して、生まれたからには生き抜くべきだとか、命を粗末にするなであるとか、生きたかった人に申し訳無いだとか、色々な意見があることと思う


ただ、ここではそういったことから距離を取った話をしたい

実際に、生きることで大なり小なり苦痛はあるものだ
その内の、いわゆる、死にたいほどの苦痛というものがあって、その苦痛から逃れる手段として死を選ぶ権利というものを、考えてみたい次第である


さて、まずは、反出生主義という考え方の話をしてみたいと思う
それは、子を産むことを道徳的に悪いことと考え、生殖行為をすべきでないとする考え方である

まず、反出生主義であることは、命を軽率に考えているわけではないと断っておく

命は尊ぶべきものと何よりも分かっているからこそ、例えば、苦痛に満ちた環境に生まれることについて、否定的な考えを持つに至ったのである
それは、命を軽んずるよりも、むしろ博愛的であり、繰り返すが、命を軽く見ているわけではない


また、子を作るとは、生きている人たちの身勝手な行いであるとも言える
生まれてくる者に、出生の意思を確認するわけにもいかないという点であったり、今を生きている者にとっての後継ぎや労働力を求めるためであったりする点など、出生とは、現在に生を受けている人々のために、一方的に望まれるものと解釈できる点がある

出生する人の選択の余地の無さが、不合理であると考え、子をなすことは非人道的な面があると言える

そのようなことなどから、子を作ることは非道徳的であると考えるのが、反出生主義である


ただ、反出生主義は、文字通りこれから生まれてくる者たちについて、不合理で非道徳的な押し付けをするべきでないという考え方である
だから、私個人としては、既に生まれている者については、生まれたくなかったことを理由にして、誰かを責める理由になるかについて、疑問に思う

そこで、今、生きていて、生まれることを拒みたかった人たちの中には、安楽死を認めるべきという意見を持つ人がいることに注目する


前述したように、我々は、生まれることを、おそらくは拒むことは出来ない
両親となるべく者たちが結ばれ、細胞が結合し、その他の事故などの要因から免れれば、出生する

その出生に至る過程を奇跡と呼ぶ人もいる

命は天からの授かりものとされ、尊ぶべきものとされている

その一方で、生きることに耐え難い苦しさを感じる人がいることも事実である

そこで、生存選択権とも言うべき、死の権利を認めるべきかという議論が起こるのだろうと考える



さて、現在、日本では、経済的事情、性別、障害、その他様々な要素と関係なく、個人として尊重される生来の権利を有するとされている

それは基本的人権と呼ばれるものだ

法のもとでの平等な立場であることが秩序を形作る内の1つとして記されている


また、人は、出生と共に権利能力を有するとされ、相続などでは、出生時から、権利の発生する出来事があったところまで、さかのぼって権利を主張することが出来ると解されている


では、死の権利は、そういった生来の人権として、生まれない選択を取ることを認められるものなのだろうか

死の権利とは何だろう
少し考えてみようと思う

簡潔に言えば、生きるか死ぬかを選ぶことである

人の命に死はついて回る
その人生の大きな分岐点を自らの意思で選ぶことへの尊重と言えると思う

さらに、国の制度が関わってくるとなると、例外的に殺人や自殺幇助という行為を認めることという側面があると思う

すると、死ぬという行動を道徳的に正しいと言うことができるのかを考える必要があるだろう

何故、自殺、これを言い換えると、死を選択することとも言えるだろう、それは良くないことなのだろうか

例えば、身近な人を悲しませるという意見があるだろう
また、生産力として貢献することを放棄したからという意見もあるかもしれない
教えによって、禁じられていることもあるだろう
死生観は様々であり、その理由も多様なものだろうが、その根幹には命の尊厳を考えてのものが多いと思う


死は永遠の別れである
その影響は、例えば、関わりのあった人々に強い喪失感を覚えさせることも考えられる
その喪失感に耐えきれず、心を病んでしまう人もいる

冷たい言い方になるが、後の処理というものだってある
詳しくは知らないので、語ることは出来ないが、遺体の状態が悪いと、それは大変だそうだ

詳しく語ることはできなかったが、死の選択とは、大きな影響を与え得ると思う

死の選択にも、周囲に対して責任があると言える
だから、軽率な死の選択は、道徳的に良くないものとされているのだと思う

しかし、個人にとって、その苦しみから逃れるために、他に手段がないとすれば、死の選択は道徳的に正しいと考えることも出来るように思う

その選択は、決して軽率とは言い切れないのではないだろうか

現に、自殺とはそういう動機のために行われることが多いであろう

様々な理由による肉体的苦痛や精神的苦痛をもって、死を望むほどに苦しんでいる人はいるだろう



ところで、他国には、既に、安楽死を合法としている国があるらしい
死を選ぶことに十分な理由があって、本人がそれを望むのであれば、許可されるとのことだ
生死の選択権を尊重すべきという見方からは肯定もできよう
しかし、他方で命を軽視した安易な死が選ばれることへの懸念もある



安楽死を合法化されている国では、安楽死を認める条件として、死を選ぶに十分な理由があることが必要であると述べた

例えば、それはどういうものがあげられるだろうか
死を望むほどに苦しみを覚え得るものとして、末期のガンなどが思い浮かぶ
不治の病に苦しみつつ、生き続けるのは大変に酷なものだ
体が燃えるようだとか、引き裂かれるような痛みを感じるだとか、色々な形容がされるが、どれもその過酷さを物語っているように思う
その過酷さから解放される手段の1つとして安楽死が認められたことは、有意義であると、私は思う


ところで、私は、不治の病という言葉から、発達障害についてはどうだろうかと連想した
発達障害もまた、一般に、治らないものとされている
先天的な脳機能疾患とされている

安楽死を合法としている国では、精神疾患は許可の対象外とのことだが、発達障害は、精神疾患であるか疑問に思うところもあって、話題にあげることにする

発達障害を持つ人の中には、同調を重んじる日本社会で生きることに、難しさや辛さを感じる人が少なくない

障害の程度も個々人で様々であるが、障害者という括りにして、差別的な扱いを受けることもあるだろう


また、障害者雇用の推進もうまくいっているのだろうか
企業側には、使える発達障害者を求める意見もあるようで、個人の特性を考慮して、その人の能力を発揮させるという意識が共有されているかは疑問に思うところだ


ただ、安楽死を認めることで、障害などへの差別がより増えてしまうのではないかということも考えられる

先に述べたが、社会貢献を果たすべきだから自殺はならないこととする意見から転じて、社会貢献を果たせない人間は必要ないという、基本的人権に背く考え方の人もいるだろう
そういった意見が勢いを増していき、優生学的バイアスに基づいた非人道的な意見が広まり、定着ことは避けなくてはならない

やはり、そういった面での、命の軽視であるとか、個人の尊重を軽んじることなどについては、起こりうるだろうという怖さを感じる


変えようのない生き方を強制されたり、逃れられない苦しみは、存在するものだ

それと向き合い、付き合っていくのも一つの人生の選択だろう
ただ、苦しみ続けることに別れを告げることも、一つの生き方と言えるのではないだろうか


合法な安楽死について考えることは、生きるとは何か、生き方とは何なのか、命の尊厳とはどういうものなのか、そういったことを見つめ直すことになると、私は思う

生死の選択ばかりでなく、様々な状況において、個々人がそれぞれの人として、最大限の尊重を受けられることを願うばかりである

以上